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青年期の故郷 山形を訪問(4月27日) | ||||||||||||||||||||||||||
赤湯駅から屋代村(現高畠町)を歩く | ||||||||||||||||||||||||||
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式典(28日)はさて置き、そ前日に南陽市のJR赤湯駅から高畠町(旧屋代村深沼)を歩きました。 懐かしかったのは、その地域で大きな面積を占めた谷地(湿地)の水位を調整する深沼の水門です(写真①)。当時は、水門をブンギ(分岐)と呼び、上流域(横堀)で水浴びをした所です。放置された谷地船から飛び込んだり、舟をひっくり返したり、無制限の楽しさでした。谷地船は長方形の平底型で、谷地田に通う足でもあり、稲などの運搬に利用していました。あぜ道はぬかって歩けなかったのです。田植えなども、谷地下駄を履いての作業でした。また谷地は、水鳥や渡り鳥の楽園でした。 谷地は埋められ、乾田になりました。谷地の最深部は南陽市の白龍湖で、今も残り観光地です。 ● 赤湯駅から水門まで着くには、昔の倍の時間でした。車社会となり、七ヶ宿街道(R113)や谷地に東北中央自動車道(E13)がつくられ「南陽高畠IC」あり、集落が分断されて旧道が地下歩道化したからです。町村境の同級生宅は、2回も移転させられたそうで、元の場所と大分離れていました。旧道を探していると、1本の杉の木が目に入り、瞬時に思い出しました(写真②)。落雷で根元が裂かれ姿、根元に明神様の石のほこらがあったからです。そこの畑で浮かんだのは、種まく前の土おこしです。中腰で使う手鍬の重労働で、手伝いの中でも一番いやでした。そして、この畑で鋤引く牛の手綱取りで、角で背中を刺されたことです。怖くて、その後手綱取りはできませんでした。 当時、明神様ではお祀りをしていました。手を合わせ、感謝と長寿を願いました。 畑は、全面にリンゴの木をうえてありました。驚いたのは、鳥のキジが畑を歩いていたことです。 ● 赤湯駅から歩いて2時間7分(延べ6.4㎞)、父の生家(深沼・大新)に着きました(写真③)。 その家で、私は母と別れて小学4年から高校1年まで育ちました。2歳上の姉も一緒でした。姉の滞在は、小学6年から中学3年です。 現在住んでいるのは、従兄弟の息子です。5年ぶりの訪問です。古地図が出てきたから見てほしいと言われてみると、明治後期の失火で焼けた後の再建地図(相學士作成)でした。現在の本宅外の付属施設の配置図は大分変わっていたが、私が育った70余年前と大きく変わらず、次々と思い出が浮かび話しはつきず、あっと言う間に2時間が過ぎました。その後、近くに住む私の弟宅により、まもなくすると急に雨が張り、高畠駅までの徒歩を諦め車で送ってもらいました。 高畠駅は、ホームに温泉があり有名です。途中下車でも入れます。普通列車は1時間に1本有り無しですから、十分楽しめます。 |
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